ヤオ族

タイのヤオ族と歴史

ヤオ族の刺しゅう

ヤオ族は中国南部からタイ北部にかけて分布する少数民族で、タイでは、ヤオ族のうち特にミエンと自称する民族集団が山岳地帯に分散しています。もともとの「ヤオ族」(瑶族)は、中国の55少数民族のひとつで、中国の歴史からは、「移動に長ける」ことで知られています。数世紀にわたって継続的な移動を経て東から西へと向かい、華南地区に徐々に分布し、東南アジア各国にまで広がるようになりました。(白鳥芳郎著『東南アジア山地民族誌―ヤオとその隣接諸種族』)

ミエン族が中国南部から焼畑農業を繰り返しながら移動し、タイに居住するようになったのは、19世紀後半と言われています。ベトナム、ラオスを経由してタイに移住したグループ、ビルマ経由でタイに移住したグループなどルートはいくつかあるようです。タイ北部のチェンライ県、チェンコーン郡や、MTMで付き合いのあるパヤオ県チェンカム郡に住むミエンはベトナム、ラオス経由グループと言います。その違いは女性の頭巾でわかるとか。ベトナム、ラオスグループは丸く巻き、刺しゅうは赤、黄色、緑、白、紫の原色使い、一方のビルマ経由グループはクロスに巻いており、刺しゅうの色はブルー系が多いそうです。

タイ国北部のチェンライ、ナーン、パヤオ、チェンマイ、ターク、ランパーン、カンペンペット、ピサヌローク県などに約41,700(1995年Wikipedia)人のミエンが居住しているとされています。

タイ政府の山地民対策

山地

1950年代にタイ政府による山地民対策が始まりました。それまでは、北部や東部の国境周辺はミエンに限らず山地民が自由に越境して独自の暮らしを営んでいたようです。タイ政府は60年代から70年代にかけて「山地民調査」を実施し、山地民の共産化を阻止するために学校教育制度を導入して同化政策を行いました。当時は東西の冷戦状況の中にあり、国境付近での戦闘や少数民族のゲリラ活動が自国に越境してくることを恐れた山地民対策でした。

農業については、森林資源対策や水源対策を理由に、焼畑や芥子栽培を禁止し、定住化を進め、換金作物の栽培を奨励しました。また、同時に山地民を「タイ市民」とするため、山地民登録を行い、タイ国籍法の改定を行いました。しかし、国籍法は政治状況によって変遷する中で大変複雑になっており、国籍を取得した山地民もいる一方で、未だにブルーカードやオレンジカードと言われる身分証で法的身分があいまいな人や無国籍の人も相当数あります。

ただ、ミエンの場合、1984年の閣議決定によって実施された「正式な高地民調査」以前にタイに移住した人がほとんどであったため、タイ国籍を持っており、他の山地民に比べると国籍問題を抱える人はあまりいないようです。

山地

「山地民調査」で山地民の問題が確定されたのですが、それは山地民を「さまざまな問題の元凶」とみなし、「遅れた人々、不法行為をするグループ」という見方が社会に根付く元になったとも言えると思います。未だに山地民は違法な森林伐採者であり、環境を破壊し、被害をもたらす人々というステレオタイプで見られますが、長い間自然と共生してきた山地民が自然破壊するような方法はとりません。実際、大規模な森林の伐採などはすべて手仕事に頼る山地民には無理なことです。実は森林局の役人や政治家が違法伐採をして利益を得ていたというニュースも以前はよく耳にしました。近年、「乾期の山焼き」により大気汚染が深刻な問題になっていますが、乾期に山を焼く人々は山地民よりふもとのタイ人の方が多いと実感します。また、麻薬の運び屋としても山地民がやり玉にあげられますが、末端の仕事を担うだけで、元締めは資本家や政治家など権力者であるのが常です。いつも山地民はスケープゴートにさせられているのです。

ヤオ族の生活

ヤオ族の生活

ミエン族も1970年頃までは1000メートル以上の高地で芥子栽培を行っていたそうです。その後、政府の山地民政策によってミエンの生活様式も大きく変わっていきました。

元々5年から10年周期で移住を繰り返す「開拓型焼畑」をやってきたミエンですが、定住政策によって村落を形成していきます。徐々に高地から低地へ移住し、自給用に陸稲を栽培し、トウモロコシ、ラムヤイ(竜眼)、しょうが、場所によってはお茶、コーヒー、ゴムなどの換金作物を栽培するようになりました。住まいの敷地には豚や鶏などの家畜を飼っています。MTMの刺しゅうをお願いしているタム村、ソプトゥ村も低地ですが、高地から約40年前に移住しています。

その他、最近は都市への移住、海外への移住労働も増えています。都市に住むミエンでは豆乳を売る商売をする女性や家族が少なくありません。それで家を建てた人もいると聞きます。タイでは朝や夕方、市場や路上で豆乳を売っていて、パトンコーという揚げパンや食パンを細かく切ったものと一緒に食べます。繁盛している豆乳屋台はたいていミエンの人なのです。その理由は、元々正月に豆腐や豆乳を作っていたためで、先祖から伝わる各家や氏によって独自の手法があり、それが現代の豆乳稼業に活かされているということのようです。

家族の役割 

子供たち

父親は子ども、祖父母など家族全員の扶養と精霊を祀る大事な役割があります。村内で各種儀式を司るのは男性のみで、資格を持った人が執り行います。昔は漢字を学べるのも男性だけでした。母親は家事、育児、家畜の世話、農作業、刺しゅうを含めた衣装作り、よい種を選び守るという多くの大切な仕事があります。 他民族にみられるような早婚の習慣はなく、女子に対する躾は厳しいと言われます。